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Float/World

成人済み腐女子の雑記帳。初めての方は''このサイトについて''をご覧ください。

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【TOA】もしもひとりの男が①

 レムの塔で聖なる焔の光に勝利したら。

 もしも六神将側が勝利していたら?というお話です。レムの塔のディスト戦後の場面から始まるので、ゲームクリア済み推奨です。ジェイド以外のパーティメンバーは死亡しています。ネタバレ、死ネタ、鬱展開、捏造を含むので注意してください。
 直接的な描写はありませんが、ディストがジェイドに、ジェイドがピオニーに依存しています。
 これらの要素を受け入れられる方にお楽しみいただければ幸いです。

 表紙お借りしました。 http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=22839733



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 瘴気で薄紫に汚れた空。雲間に突き刺さる、白い塔の先端は霞んで見えない。
 かつて宇宙へと脱出するために建てられたという、レムの塔。その中心を上昇していく真円の昇降機の上は、今や血の海だった。
 神託の盾騎士団の制服を着た少女が二人、貴族の子女のようないでたちの少女が一人、身軽そうな風体の男が一人、鮮血に塗れ倒れている。彼らの仲間はもう二人いたが、一人は第七音素でできたレプリカだったため、その遺体は影すら残っていなかった。
 もう一人は、この殺戮の舞台を作りだした譜業兵器の前で、膝をつき荒い息を吐いている。
「油断…しましたか…」
青い軍服を纏った男―――ジェイド・カーティスは、負け惜しみの言葉を吐き、右手で握った槍を杖に立ち上がろうとする。しかしそれは叶わず、無様にももう一度膝をつくことになってしまった。力んだことで、ジェイドの軍服の腹にじわりとどす黒い色が滲む。その様を嘲笑う声が、彼の頭の上から降ってきた。
 不快な笑い声と共に現れたのは、譜業兵器の主である男―――ディストだった。彼は音機関である空飛ぶ椅子に座り、自らの戦果に満足げに鼻を鳴らした。
「ふん、雑魚どもめが。改造を重ね最終形態に到達したカイザーディストXXに勝とうだなんて、百万年早いんですよ」
傲慢に言い放つディストに、ジェイドは肩で息をするばかりで言い返すことができない。その様子を、ディストは降伏の印と受け取り、残忍な笑みを浮かべた。
 ジェイドとその仲間たちは、協力関係にあるアッシュを追ってこのレムの塔に入った。塔を上った先には、居場所を求めて集ったレプリカたちがひしめき合っていた。彼らからアッシュの目的を聞いたとき、突如としてディストと彼が操るカイザーディストXXが現れたのだ。レプリカを葬り去るためにモースから遣わされたディストと、彼らを守ろうとするジェイドたちとの間で戦いの火蓋が切られた。
 カイザーディストXXとの戦いは熾烈を極めた。一時はジェイドたちが勝機をつかんだものの、ディストが秘奥義を放ったことで形勢は逆転し、作戦は総崩れとなった。回復は次第に間に合わなくなり、最後まで地に足を付けていたジェイドをカイザーディストXXのレーザーが貫いた。しかし譜業兵器はジェイドに止めを刺すことなく、レプリカたちを音素の粒子に変えて回り、再び彼の前に戻ってきたのだった。
 カイザーディストXXとジェイドの間に、椅子に腰かけたディストが降りてくる。椅子が着地すると彼は立ち上がり、傷ついたジェイドに歩み寄った。
「殺しなさい」
ぜいぜいと苦しそうな息を繰り返す中で、ジェイドは吐き捨てるように言う。最期まで私に命令しますか、とディストは思った。今まで散々下僕として扱っておきながら、見捨てておいて。
 恨み言が喉元まで出かかったが、彼は努めて冷静に、勝者の威厳をもって返答した。
「言われなくてもそうします。最後に、ユリアに祈る時間をあげましょう。ああ、あなたは預言が嫌いでしたっけね。あなたも、と言うべきか」
あの愚かな皇帝と同じで。そう付け足すと、ジェイドが唇を噛むのが見えた。主人を侮辱された彼は、怒りの滲んだ声で言う。
「最後に唱えるのは祈りの言葉などではありません…お前を倒す譜術だ…炸裂する力よ…」
彼は最も消費の少ない譜術を発動しようとした。ディストは内心身構えたが、詠唱が終わっても二人の間には何も起こらない。譜術を扱うための音素が圧倒的に不足しているのだ。ディストは腹の底から笑いがこみ上げてくるのを感じた。
 おかしい。ああ、おかしい。あのジェイドが! あの金の貴公子、ケテルブルクが生んだ天才譜術博士、死霊使いと敵味方から恐れられた男が! 私の足元に這いつくばって譜術ひとつ唱えることができない! 減らず口を叩くばかりで、この私にかすり傷ひとつ付けられないとは!
 ディストの高笑いは徐々に大きくなり、昇降機の上に不快に響き渡った。悔しげに歯ぎしりをするジェイドに、ディストは息が弾むままに畳みかける。
「悪あがきはよしなさい、ジェイド。あなたたちは負けたのです。つまりあなたたちの信念が、掲げた未来が我々の示した未来に敗北したということ。世界は預言と被験者を殺す道を選んだのです。これ以上抗っても何も変えられない!」
反撃の手段を無くしたジェイドは、傷の痛みに顔を歪めたまま、ディストの言葉を浴びせられているだけだった。それをいいことに、ディストはまくし立てる。
「あなたたちを倒したら、次はアッシュか。結局ローレライの宝珠は見つかりませんでしたねぇ。ローレライを解放する術を持たない燃えかすなど脅威ではありません。野放しにしておいても支障はないくらいですよ。
 全人類のレプリカ情報を抜き取ったら、被験者を大地ごと滅ぼす。これで新生ローレライ教団の悲願は達成されます。そして私は、ネビリム先生のレプリカを作る。もう誰にも邪魔させはしない!」
ネビリム先生。黙って言葉で嬲られるままだったジェイドが、彼の人の名を耳にした瞬間、顔を上げた。きっとディストを睨んで言い放つ。
「それだけはやめろ、サフィール…あの人を甦らせるせることだけは…」
「安心なさい。生まれ変わった世界で私はあなたやネフリーや、ネビリム先生のレプリカとともに幸せに暮らします。ケテルブルクでのあの時代が甦る。あなたもかつて、ピオニーにほだされる前は望んでいたことではありませんか。嬉しいでしょう? ジェイド」
もちろんジェイドが過去の再現など望んでいないことはディストは知っていた。それでも、ネビリム先生さえ復活させれば、ジェイドも彼女に許しを請い、再び自分と子供時代のように幸せな時間を歩んでくれると信じていた。二十年以上もの間ディストを突き動かしていたそれは、もはや単なる過去への執着ではなく、彼のすべての行動の原理たる信念だった。
 ジェイドの視線は、脇へと動く。そこには無残に散った仲間の姿があった。それを見つめ、息絶え絶えになりながら、彼は言葉を紡ぐ。その声は先程ディストに敵意をむき出しにしていたときとは違って、どこか優しげだった。
「もうたくさんだ…過去は、変えられない。だが人は変われると教えられたんだ…私は誰にも私の罪を繰り返させはしない…お前にだって…」
ディストの眉がぴくりと動いた。教えられた。誰に? ここに横たわる仲間たちに。もはや遺体もない一人の少年に。
 ヴァンの計画を阻止するため、ジェイドと共に立ち上がった旅の道連れ。彼らと出会ってから、ジェイドは変わってしまった。以前はそんなことを言う人ではなかった。彼は人間の性を浅ましいものとして見離し、醒めた視線を向け、誰とも馴れ合わなかったはずだ。
 そのジェイドが若き男女たちと旅をするうち何かを学び、諦観するばかりだった価値観を改め、人間への信頼を得るに至った。それを人は成長と呼ぶのだろう。
 だがディストにしてみれば、幼馴染をそんな生易しい思考に変えてしまった連中が許せなかった。自分を差し置いてジェイドとつるみ、彼の考え方に影響を与えるまでにジェイドの内面に立ち入った五人が、分をわきまえない愚か者に思えた。
 苛立ちがディストの紫の唇を歪ませ、声を荒げさせる。
「そんな世迷いごとをあなたに吹き込んだお友達はどうなりましたか? お祈りが済んだなら、今すぐ彼らの元へ送って差し上げますよ」
ジェイドは今にも意識を手放しそうなのであろう、既に目の焦点は合っていない。
 ディストは今度こそ止めを刺そうと、片手を上げる。カイザーディストXXの腕が駆動音を立てて持ち上がり、ジェイドに向けて銃を構えた。
「せめてもの温情として苦しまないように殺してあげます。かつての友よ、安らかに眠れ。さようなら、ジェイド」
ディストが手を振り下ろそうとした、そのときだった。ジェイドの唇が動いた。声にならない声が聞こえた気がした。
 ピオニー、と。
 ディストがこの世で最も憎み、妬み、レプリカ世界であっても決して彼の似姿だけは作りたくないと思っている男の名。
 この友は、最後まで、あの男を。私ではなく…。
「…くっ」
形容しがたい思いがこみ上げ、ディストの心を掻き乱した。
「…どうした。まだ、殺さないのか」
いつまで経っても銃撃が自分を襲わないことを訝しがり、ジェイドは訊く。その問いに、答えられるはずもなかった。
「気が変わりました。命を奪うのはやめます」
なに、とジェイドが驚きを漏らす。ディストも自身の心変わりに愕然としたが、その決断には何の迷いもなかった。みすみす彼を自由にしようなどとは露ほども思っていない。ジェイドと自分は、袂を分かった。その断絶を簡単に埋めていいはずがない。自分を捨てた男には、相応の罰を受けてもらわねばならない。
 ジェイドに近づき、その顎を掴んで自分を見上げさせる。眼鏡越しに真紅の瞳と目が合った。敵意と疑惑に満ちた視線が、ディストを射抜く。
「代わりに、自由を奪いましょう。あなたを捕えて監禁し、被験者の世界を殺す様を見せつけてやる。あなたを選ばなかった世界がどうなるか、その行く末を見守ってもらいます。生き長らえたことを後悔させてあげましょう」
「冗談ではない…殺せ…」
蚊の鳴くような声で抵抗するジェイドに、ディストは宣言する。
「もう決めました。今この瞬間から、あなたには息をする以外の自由はありません。さぁ、連れて行きなさい」
血に濡れた顎から手を離し、手袋で包まれた指を鳴らす。ジェイドはよろめいて地面に倒れそうになったが、間一髪、カイザーディストXXの腕がその体をつかんだ。
 譜業兵器の操縦室に気を失ったジェイドを収容すると、ディストは悠々と自らの椅子に腰かけた。
 ジェイドを連れていく先、彼を捕えておく方法、ヴァンへの隠蔽の仕方、今後のレプリカ計画。それらすべてが、ディストの頭の中で素早く組み上がっていった。不思議と清々しい気持ちを覚えながら、飛翔するカイザーディストXXを見送る。
「さて、私はもう一仕事終えないといけませんね」
譜業兵器の影が見えなくなったところで、彼は注射器を取り出した。その中には第七音素を蓄積した譜石とフォニミンが入っている。ディストは今にも息絶えそうな敗者たちに、銀色の針を光らせながら近づいていった。

 真白の世界を、歩いている。
 灰色の空、そこから舞いしきる風花。足元にまとわりつく、積もりたての深雪。雪原に深い足跡を残しながら、ジェイドは進んでいた。不思議と寒さは感じない。故郷の身を裂くような気候には慣れきっているためか、それともこれが夢の中だからか。
 そう、これは夢だ。ジェイドには強い確信が持てた。何故なら彼の数歩前には、ここには決していないはずの皇帝が、グランコクマの玉座に座っているときと同じ服装で、佇んでいるからだ。
「ピオニー…」
二人きりのときでないと呼ばない彼の名前を口にする。皇帝はこちらを向き微笑んでいる。
「どうしたジェイド、早く来い」
私だって、早くあなたのもとに行きたい。あなたに話したいことがたくさんある。もっと近くであなたの顔が見たい。声が聞きたい。それなのに。
「すみません、全然足が進まないんです。雪道には慣れているはずなのに、おかしいですねぇ」
年ですかね、と茶化して言っても、皇帝はいつものように声を上げて笑うことはしない。ただ穏やかな表情を浮かべ、ジェイドを見つめているだけだ。
 体は次第に重くなり、足取りはますます覚束なくなっていく。皇帝と自分との間の距離は全く縮まらない。息も苦しくなってきた。
 夢の癖に、夢でくらい、彼の近くに行かせてくれたっていいじゃないか。この夢を作りだした張本人である自分の深層意識に、こっそり文句を言った。
 そうだ。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。ジェイドは歩みを止め、ピオニーに呼びかけた。
「陛下、あなたから私のほうに来てはいただけませんか? こちらからだとちっとも近づけないので」
すると、皇帝は初めて表情を変えた。困惑したように眉をひそめ、それでいて口元には笑みを張りつかせたまま。
「すまないな、ジェイド。俺はここから動けないんだ。お前から来てもらうしかないんだ」
「なぜ…」
「それはな、ジェイド」
次の瞬間、ジェイドは絶叫していた。

 この世ならざるものを、見た気がした。
 不明瞭だった世界は徐々に輪郭を取り戻し、ジェイドの意識は現実へと浮かび上がる。
 目覚めたのは、薄暗闇の中だった。掌が汗ばんでいる。何か恐ろしい夢を見たのだろう、そんな記憶の感触だけ残っていた。内容は覚えていないが、どうでもよいことだった。大事なのは、今身の周りで起こっていることだけだ。
 ジェイドは最後に脳に刻み付けられた記憶を思い出し、がばりと身を起こした。レムの塔。倒れていった仲間たち。譜業兵器。ディスト。あの悪夢のような惨状こそ現実なのだ。ティアたちの命は…おそらくは、無いのだろう。ならば、何故自分は生きている? 
 ディストが、ジェイドの命を奪うのはやめると言っていた。おぼろげな意識の中で聞いた彼の声が甦る。監禁し、生き長らえさせると…。
 起きてすぐに眼鏡を探した。それは枕の脇にあったが、手を伸ばすときに手首に何かが重くまとわりついているのに気が付いた。
 金属でできた手枷だった。鎖が繋がっており、その先は闇に紛れて見えない。足首にも同じものが付いている。
 封印術を使われているのか、体がひどく怠い。音素を体に取り込もうと意識を集中したが、不可能だった。軍が敵の譜術士を拘束するときに用いるのと同じ、術技を封じる枷なのだろう。
 状況把握に努める。傷は治っている。暗がりの中、自分が横たわっている寝台がぼうっと白く浮き上がっていた。闇に目が慣れてくると、部屋の隅に水場と排水溝があるのが見てとれた。湿気が強く、濡れた石畳の匂いがする。
 唯一の明かりである音素灯は、檻の外にあった。檻…? そう、ここは鉄格子の中だった。地下室なのだろう、三方の壁にも鉄格子の外にも窓はなく、今が昼か夜かもわからなかった。
 自分は、ディスト、もしくは新生ローレライ教団によって閉じ込められたのだ。
 不意に、遠くでブーツのかかとが階段を打つような音が続いた。段差を降り切った足音は、こちらへ近づいてくる。ひょろ長い影が、檻の正面に立つ。音素灯がその姿を照らし出した。
 オレンジ色の淡い光の中、ディストが高慢そうな微笑みを浮かべていた。
「ようやく起きましたか。怪我は治癒士に治させましたが、丸三日眠っているとはね」
ざらざらとした声はジェイドの覚醒を待ちわびていたかのように、どこか嬉しそうだった。ジェイドは警戒心も露わに彼を睨む。
「ここはどこです」
「私の屋敷の地下ですよ。あなたが入っているのは実験動物用の檻です。言ったでしょう? あなたの自由を奪うと」
「私の仲間たちは」
「完全な死亡が確認されました。遺体は跡形も残っていませんが…どうやって処理されたか知りたいですか?」
その物言いに腸が煮えくり返る思いがしたが、今は感情を押し殺した。
「結構だ。痛い目を見たくなかったら、速急にここから出しなさい」
「そうはいきません。一度捕えた虜囚を逃がす馬鹿がどこにいますか」
「この程度の拘束で、この私をいつまでも捕えておけるとでも?」
敢えて挑発を含んだ声で言うと、ディストはせせら笑った。
「自分の置かれている状況が理解できていないようですね。あなたには二十四時間ここで生活してもらいます。もちろん私の監視付きでね。私がここにいない間も、あなたの様子は常に私の部屋にモニタリングされていますから、それをお忘れなきよう」
ジェイドは天井の角に取りつけられた音機関を睨む。魚の目のようなレンズが、音素灯の光を反射してこちらを見つめていた。
「もちろん譜術は使えません。あなたがその枷を外したり、檻の中に音素反応が発生したりするようなことがあれば、音機関が反応して麻痺ガスが出ます。くれぐれもここから出ようなどとは考えないことですね」
これは最初の予想より手ごわいな、とジェイドは思った。得意の譜術は全く使えないし、外界へと通じる箇所から抜け出そうにもまず枷を破壊しなければならない。しかし、それを行うとガスが発生して行動が制限されるから結局振出しに戻る。少し考えを巡らせただけでは、良い方法は思い付かなかった。
「あなたにしてはやりますね。これは脱獄は難しそうだ」
ジェイドが素直な感想を述べると、ディストは褒め言葉と受け取ったのか、胸を張った。
「当たり前でしょう。何せ死霊使いを捕えておこうというわけですからね。この天才ディストも本気を出さざるを得なかったわけです。脱出は不可能だと思ってください」
それでもここから出なければならない。自分たちが敗れてから三日も経ってしまったということは、世界は刻一刻を争う事態に陥っているだろう。急いで地上へ戻らなければ。
 そのためには、この拘束と檻の仕掛けを解く必要がある。しかし、手遅れになる前に間に合うかどうか…。
「外の状況はどうなっていますか、ディスト」
まずは自分が眠っている間に起きたことを知るのが先決だと思い、ジェイドは訊いた。ディストは待ってましたと言わんばかりに、澱みなく語りだす。
「世論は完全に新生ローレライ教団に傾きました。あなたのお仲間が死んだことが、我が教団に刃向った者がどうなるかということの見せしめになったようです。為政者たちの説得も空しく、民衆は完全に教団の盲信者です。為政者が教団に降伏するか、民衆が彼らを追い出すか、いずれにせよ全世界が教団の足元にひれ伏すまでそう時間はかからないでしょう。
 お陰様で、被験者からレプリカ情報を引き出す作業も非常に捗っています。預言を詠んでもらおうと民衆が大挙して訪れるので、教団は預言士を増やして対応しています。全人類のレプリカ情報が手に入れば、あとはレプリカ大地を創造して被験者ごと今ある大地を滅ぼすだけですね。
 実に私たちの思い通りに事が運んでいるというわけです。ローレライやユリアの思し召しもなしにね」
状況はジェイドの展望を裏切らなかった。そうであってほしくない、だが状況が悪ければこう転ばざるを得ないだろうと踏んだ結果に陥ってしまっていた。それでも、彼が生きていれば一縷の望みがあるはずだ。
「アッシュはどうしていますか」
「彼はまだ逃走中です。両国の政府と旧教団の橋渡しを務め、民衆に働きかけているようですが、無駄なことですよ。ヴァンも彼のことは泳がせています。今はレプリカ情報採取のほうが先決ですからね。アッシュは最後に捕えて、超振動を起こさせられればいいのです」
「その見通しの甘さがあなたたちの足元を掬うことになると思いますがね」
ローレライを解放させることさえできれば、ヴァンの計画を水泡に帰することができる。アッシュがローレライの剣を持っている限り、逆転のチャンスはあった。
 新生ローレライ教団の成果を語り、いかに自分たちが優位に立っているか見せつけても余裕然とした態度を崩さないジェイドに、ディストは胡乱な表情を向ける。
「随分悠長な物言いですね。もっと焦りを見せたらどうです。お仲間は全員殺され、両国では今にも国家転覆が起きそうなほど事態は緊迫しているのですよ。こんなときまで澄ました態度を取り繕わなくても」
「例え私が焦っているとして、それをあなたに示す理由がありません。報告は以上ですか?」
眼鏡を押さえて言うと、ディストが拳を握るのが見えた。ジェイドに無関心を装われたことが苛立たしいのだろう。知ったことではなかった。
「そうですね、あなたから聞きたいことが無ければ他には…ああ、そうだ」
いいことを思い付いたと言わんばかりに、ディストの顔に喜色が溢れる。ジェイドはだいたい何を聞かんとしているのか分かる自分が嫌になった。
「あなたが最も気になっている、ピオニーのことは知りたくありませんか?」
ディストは底意地の悪い微笑みを浮かべる。ジェイドは大袈裟にため息をつき、かぶりを振った。
「陛下のことなら聞かずとも容易に想像がつきますよ。彼だけは私の生存を信じているでしょう。なので懐刀である私は、一刻も早く彼のもとへ馳せ参じねばならないというわけです。人を待たせることほど心苦しいことはありませんからね」
ディストはむっとした表情になる。彼は拳を振り上げながら言った。
「そうはさせませんよ。あなたのことを誰よりもよく知る私は、幾重にも防衛線を張っているのです。あなたは決して逃げられない。生きるも死ぬも、私の掌の上です。それをよくよく承知していただきたいですね」
…いや、ひとつだけディストを出し抜く方法がある。それは何日もかけて脱出方法を考えたり、それを実行に移して失敗を繰り返したりするより遥かに簡単かつ確実な方法に違いなかった。ジェイドは覚悟を決めた。
「サフィール、友達をこんなところに閉じ込めるなんて酷いじゃありませんか。お願いですから、ここから出していただけませんか?」
ディストが目を見開く。ジェイドは誠実そうな表情を作り、言葉を続けた。
「もう私にあなたに抵抗する気などありません。完全な負けを認めます。ですから、この枷を外してほしいんです。鉄格子越しではなく、テーブルについてお茶でも飲みながら、あなたとゆっくり話がしたいんです」
「ジェイド…」
ディストの表情が切なげに歪んだ。ジェイドは内心嘔吐を催していたが、幼馴染の心を動かすにはこれしかない。これが最も効果的な方法なのだ。ジェイドの精神的なダメージは甚大だが。
「あなたの部屋で子供時代の思い出を語りましょう。先生がいて、あなたがいて、幸せだったあの頃の話を」
「それは…いえ、その手には乗りませんよ。あなたがそんなことを言うなんて、嘘に決まっています…」
ディストは揺れている。ジェイドを信じていいのか。いや、自分を檻から解放させるための方便に過ぎないのではないか。
「信じてください、サフィール」
あと一押しだと踏んだジェイドは、とっておきの台詞を口にした。
「私はもうどこにも行きません。ずっとあなたのそばにいますから」
この二言の効果が及ぶのを、ジェイドは待った。ディストは黙り込んで動かない。てっきりすぐにだらしない笑顔を見せ、言われるままに錠を開けてくれるものだと算段していたのだが。
 しばらくして、ディストが唇を開いた。
「はったり、ですね」
冷ややかな声だった。読みが甘かったか、最後の一押しをするには早かったか。ディストの勘の鋭さに驚きながらも、努めて冷静に演技を続ける。
「まさか。私の言葉が信じられないのですか? 確かに今まで心ないことばかり言っていましたが、今は本当に――――」
「見苦しい嘘はやめなさい。あなたがそんなことを言うはずない。私の知るジェイドは、冷酷で私に興味がなくて、私という存在を過去の罪の象徴として切り捨てたがっている人なんですよ。あなたが私を振り向くことなんて、絶対にない」
ディストはぴしゃりと言い放った。それはあまりにも的確な、ジェイドのディストに対する感情の分析だった。
 演技が失敗したことを悔しく思いながらも、あんなに独り善がりで思い込みの激しかったディストがジェイドの本心を言い当ててきたことには、微かな感心を覚えざるを得なかった。
「さっきまでの言葉は、私に拘束を解かせるための真っ赤な嘘ですね。取り消したらどうです。あなたの本心は、私と昔話がしたいなんて欠片も思っていないんでしょう? 私のそばにいたいだなんて、虫唾が走る思いで言ったんじゃないんですか?」
ディストは語気鋭く迫った。これにはジェイドも、白状せざるを得なかった。
 いつもの白々しい態度に戻り、ため息交じりに言う。
「ばれてしまいましたか。あなたのことですからてっきり騙されてくれると思っていたんですがね」
ディストは鼻を鳴らしつつも、どこかその表情は悲しげだった。やはり、ジェイドの言葉を信じたかったのだろうか。
「最初から分かっていましたよ。長い付き合いですからね。この程度の嘘を見抜くのは造作も無いことです」
尖った声で嘯くディストに、ジェイドはわざらしい賞賛を贈る。
「まぁ、都合のいい言葉を鵜呑みにしなかっただけ少しは成長しましたね」
「そこまで馬鹿ではありませんよ。今日はもう部屋に戻ります」
突き放すように言うと、ディストは檻の傍から離れていった。
「どうぞ。あなたとこれ以上会話しなくていいと思うとせいせいします」
ジェイドは偽らざる本心を口にする。彼に呼び止められることを期待していたのか、それほど急く様子のなかったディストの足音が止まる。
「…食事は一定時間になると壁の中の音機関から配膳されます。蛇口からは水しか出ませんから、それで体を清めてください。それ以外の時間は、せいぜい壁でも見つめて無為に過ごしているがいい」
淡々とのたまうディストの背中に
「そうだ。あなたに頼みたいものが」
呼びかけると、躊躇うような間があったのち、彼は音素灯の下に引き返してきた。
 どんな用であれジェイドが自分を必要としてくれているのが分かれば、虐められてもすぐ戻ってくる。ディストの昔からの習性だった。その進歩のない様子に、内心辟易とする。
「なんですか」
「石鹸と、鏡と、剃刀をください。紳士の身だしなみを整えるのに必要なものですから」
ごく自然な風を装いジェイドが頼む。うち一つは残りの二つの欲求を違和感のない物に見せかけるためのダミーだ。ディストは一瞬考え込んだ。
「…後のふたつは凶器になり得るのでだめです。石鹸は、次の食事の際に一緒に届けておきます。それでいいですね」
感情のこもらない口調は、ジェイドの思惑を見抜いた証だろうか。今度こそ踵を返し、ディストは闇の中に歩み去っていった。
 上のほうで扉が閉まる音を聞いて、ジェイドは独り言ちる。
「そう簡単にはいかないか」
ディストの精神を揺さぶってジェイドを解放させる方法は、思いのほか彼の洞察が働いたことにより失敗してしまった。こうなったら、別の心理戦を仕かけるか、鍵を破壊して抜け出すより他に手はない。
 ジェイドは瞳を閉じ、脱出の手段について熟考し始めた。すべては滅びゆく世界を救うため。そこで足掻き続ける大切な人のもとに辿り着くため。
 あなたを最後の皇帝になどさせはしない。
 待っていてくださいね、陛下。
 ジェイドは胸の中で呟いた。
 
 ディストは毎日ジェイドを訪れた。警備は万全でその様子を自室のモニターから窺い知ることはできても、直接会わずにはいられなかった。無理もない。あれだけ羨望し傍にいたがった幼馴染の身柄を掌中に収めているのだ、例え檻の中のジェイドが脱出のための機会を虎視眈々と狙っていることが分かっていても、彼と顔を合わせないことには一日を終えられなかった。
 会ってすることといえば、神聖ローレライ教団の進捗を伝えることと、駆け引きを演じることぐらいだったが。それでもディストにとっては充実した時間だった。ジェイドにしてみれば、一日の中で最も疎ましい時間であることは自明の理だが。
 ディストからジェイドに行われる報告の内容は、ジェイドにとっては悪化の一途を辿っていた。
 頑なに預言を拒み続ける政府を国民は見離し、ついに自らの国から追い出した、という話にはさすがのジェイドも眉根を寄せた。ディストが、グランコクマでは皇帝が武器を向けられ、老将がその盾になって果てたことを伝えると、ジェイドの表情は一層苦々しいものに変わった。
 その様を見てディストは悦に入った。ジェイドの怒りや嘆きといった感情は、ディストの愉しみ以外の何物でもなかった。
 ジェイドが覚醒してから一か月が経った日のこと。今日も地下牢を訪れたディストに、虜囚は冷ややかな視線を向けて報告を促した。
「レプリカ大地の作成は9割以上完成しました。キムラスカ、マルクト、ケセドニア、ダアトはもはや被験者の大地などひとかけらも残っていません。ただ、ユリアシティのみ瘴気に飲まれながらも抵抗を続けていますね。一握りですが被験者の人間が逃げ込んでレジスタンス活動を行っています。その中にはあなたの大好きな、あの皇帝陛下もいらっしゃいますよ」
それまでジェイドは淡白な表情で耳を傾けていたが、ピオニーと聞いた瞬間顔色を変えた。予想通りの反応に、ディストはほくそ笑む。
「ヴァンは私に皇帝を処刑する許可を与えました。私があの男を憎んでいるという心情を汲んでくれたのでしょう。私からあなたを奪ったピオニーをこの手で殺せると思うと、嬉しくて仕方ありませんよ」
「その前に、私がお前を殺してやる」
ジェイドが怒気を隠しもせず言い放つ。相手を射殺せそうなほど鋭い視線を向けられながらも、ディストは飄々とした態度を崩さない。
「おや、言うべき言葉を間違えているのではありませんか?」
唇の端を釣り上げて笑うと、ジェイドは更に険しい顔つきになった。
「ピオニーを助けてくださいと、懇願するならまだ考えなくもありませんよ」
ディストはわざと曖昧な言い方をする。皇帝の命を餌にされた幼馴染がどう振る舞うか、試してやるつもりだった。
 ジェイドはしばらく黙り込んだ。言葉を選ぶように、ゆっくりと訊く。
「お前に、そう頼めば叶えてくれるのか。例えヴァンに離反することになっても、ユリアシティから彼を保護して、安全な場所に匿うことができるというのか」
その口調からは敵意がなりを潜めていた。かつて力関係にあった自分たちの立場が逆転したようで、ディストはいい気分だった。
「考えなくもない、と言っただけです。もっとも、あなたが頭を下げて嘆願すれば、この薔薇のディスト、哀れに思ってその願いをかなえるやも…」
「ピオニーを助けてください」
ディストは目の前の光景に目を瞠ることになった。ジェイドが白い額を、檻の床に付けて懇願している。
「な…」
気高い彼がここまでするとは予想だにしなかったため、間の抜けた声が漏れた。ジェイドは切実な声で訴えた。
「私のことはどうなってもいい。彼だけは、生き延びさせてください。私の命をかけて、お願いします。サフィール」
「あなた、馬鹿ですか」
「馬鹿でいい。死にぞこなった私の命で陛下が救われるなら本望です。どうかお願いです。彼を死なせないでください」
馬鹿、死にぞこない。そのような単語を自称するジェイドに、ディストはますますわけが分からなくなった。あなたは本当にジェイドなんですか、と聞きたくなった。そんなにあの皇帝が大事なんですか、とも。
「あなたの命一つで、私が危険を冒してあの皇帝を救出するとでも?」
「だから、私をどうしてくれてもいいと言ってるんです。あなたの奴隷になってもいいし、私を殺すときどんなに嬲ってくれてもいい。新生ローレライ教団に加担することも、厭わない」
あなたが死んだら、ピオニーがどれだけ悲しむか、分からないんですか。
 そうは言えなかった。これでは自分が、ジェイドを想うピオニーの気持ちを理解できているようなものではないか。
 このままではジェイドの頼みを聞き入れざるを得なくなる。それだけは絶対に避けねばならない。ディストは思考を巡らせた。この問答にピリオドを打てる最強のカード。それには簡単に思い至ることができた。二十年以上もの間追い求め続け、心の最も深いところに根差した願いだったから。
 ディストはジェイドに悟られないよう小さく息を吸い、厳粛な声で告げる。
「では仮に、私がネビリム先生のレプリカを作るのに協力しなさい、と言ったら」
「…っ」
ジェイドは何かを言いかけ、上体を起こした。その顔は虚を衝かれて狼狽えている。
「それは…」
それでピオニーが助かるなら。でもその行為は、ピオニーへの最大の裏切りになる。
 その二つの思いがぶつかり合って逡巡しているのが、手に取るように分かった。
「それ…だけは…」
言葉を詰まらせるジェイドを、ディストは鼻で笑う。
「ほらね。あなたは私の最もしてほしいことは叶えられないんですよ」
本当はディストがほっと胸をなで下ろしていることなど、ジェイドは思いもよらないだろう。苦渋に濁った瞳は、ディストの足元に釘付けになったまま瞬き一つしなかった。
 これでいい、とディストは思った。あなたは何を犠牲にしてもピオニーを救い出そうとすることはない。そこまで強くピオニーを想っているなどと、私に見せつける必要はない。己の身と信念を落とすことなく、檻の中でひとり生き延びればいい。幼馴染の皇帝を犠牲にして。
 二人の間の議論は、言葉遊びをしただけで結果を出すことはなかった。ディストはそれで満足だった。今日のところはもうジェイドに用はない。彼はその場を去ろうとした。
「今日はこのくらいにしてあげます。そろそろ食事の時間ですから、失礼しますね」
階段のほうに足を向けた。そのときだった。
「待ちなさい、サフィール」
決意の滲む声が、ディストを呼び止めた。どきりとして振り返ると、一切の余念を捨てたジェイドと目が合った。そこから読み取れる感情は、覚悟。ディストに悪寒にも似た予感が走った。 
「あなたの言う通り、ネビリム先生のレプリカを作るのに協力します。あなたの助手になって、先生を甦らせましょう」
ディストは耳を疑った。彼は今なんと言った? ディストが夢にまで見た言葉を、口にした。一度破った約束を、叶えてくれると宣言した。
 けれど。でも。
「だから、陛下を助けてください。彼の命を救ってください。お願いします」
ディストは言葉を失って立ち尽くした。心臓が早鐘を打ち、判断力を鈍らせる。何か、言わなければ。そうしましょう、やっと分かってくれたのですね、と答えなければ。
「だめ、です」
しかし、渦巻き肥大化する思考に相反し、唇から漏れたのはたった一言だった。自分の声を、他人のもののように聞いていた。やっと夢が叶う。最高のチャンスを前に、ディストは否定の意志を示すことしかできなかった。
 ジェイドの表情は曇る。何故ディストが自分の申し出を拒否するのか理解できないとでもいうように。
「何故ですか。もう二度と、あなたの計画の邪魔はしません。反撃の機会を伺うために、方便を言っているのではありません。私たちのネビリム先生にかけて、誓います。その代わりに――――」
 だめだ。
 それではだめなんだ。
 あなたがネビリム先生を復活させてまで、ピオニーを救うことなどあってはならない。魂を売るような行為を代償にしてまで、彼の命を優先することなど許してはならない。例えあなたを生涯私の管理下に置いたとしても、あなたが心の底で想い続けるのはきっとあの皇帝一人なのだ。あなたは永遠に私のものにならない。ジェイドの魂は、すでにあの皇帝のもの――――
 そんなことを、思い知らされるくらいなら、いっそ。
「それじゃあだめなんです!」
叫びは地下室に反響し、残響が耳障りに尾を引いた。残されたのは、二人の間に横たわる沈黙と、答えの出てしまった問い。ピオニーを救うことはできないという、ただ一つの結論。
「サフィール?」
訝しげに眉をひそめるジェイド。その顔が、憎らしい。
 私が本当に欲しいのは、ジェイドなのだ。子供の頃から、ずっと追い求めていたのはジェイド一人だけだった。ネビリム先生を甦らせたかったのも、ジェイドを振り向かせたかったからに過ぎない。彼にもう一度笑ってほしかったから、幸せな少年時代を再現するために先生を復活させようとした。すべてはジェイドのためだった。そのことに、今気が付いた。
 なのに、ジェイドは手に入らなかった。ネビリム先生の復活という最後の切り札を使ってしまった。もう、打つ手がない。もう、振り向かせることができない。
「あなたの言うことは、聞けません。あなたが何を対価にしても。ピオニーは絶対に、救い出せません」
苦々しく答える。それ以上のことは言えなかった。本当はあなたが欲しかっただけなのだと、今更告げられるはずもなかった。
 ディストを見つめていたジェイドの眼差しが、何かを悟ったように冷たいものへと変わっていく。
「もしかして、最初から陛下を殺すつもりで、私を弄んだんですか? 私がどんなことを言っても、それは無理だと答えるつもりで。初めから陛下を助ける気なんて無かったんですね」
「そういう、わけでは…」
あながち間違いではないので、はっきり否定することができない。視線を彷徨わせていると、見下げ果てたとでも言うように大きなため息が聞こえた。ジェイドの氷のように冷ややかな声がディストを責める。
「私が答えに窮する様を見て楽しんでいたんですね。幻滅しましたよ、サフィール。元々軽蔑していましたが、ここまで人間性が墜ちているとは思いませんでした。もうあなたの話など話半分にも聞きませんよ」
違うんです。思わずそんな言葉が飛び出しかけた。口にすることはできなかった。それが嘘であることを、自分自身が一番良く分かっていたから。
 何も違わない。自分は決してピオニーを助けない。初めから、分かっていたことではないか。
 それなのに、ジェイドが言うから。全てを捧げると。ピオニーと交わした約束さえ、代償にすると言うから。
「ジェイド」
縋るように名前を呼ぶ。しかし、返す視線には侮蔑が込められていた。
「私の名前を呼ばないでください。汚らわしい。現実的に、ものを考えることにします。ここを脱出して、陛下を助けに行く方法を」
それはかつて、ディストを見捨てたときと同じ冷たい声だった。悪夢のような記憶と現実が重なり合い、彼は泣きたくなった。
 しかし、涙は流れなかった。悲しみは徐々に憎しみへと換わる。
「ピオニーは、必ず私が殺す。この手で、あなたをかどわかした男の、息の根を止める」
ディストが震える声で言っても、ジェイドはもう返事をしなかった。物思いに耽り、手枷を見つめていた。おそらく、それを破壊する方法を考えているのだろう。
「覚悟しろ、ジェイド・バルフォア」
捨て台詞を吐いて、ディストは檻に背を向けた。胃から苦い汁がせり上がってくるようで、それを押しとどめるために唇を噛んだ。
 最後の作戦の決行は明日だ。ユリアシティの防御壁を破り、生き残った人々のレプリカ情報を抜けば、全てが終わる。ジェイドのピオニーへの想いを絶つのも、そのときだ。私が彼を殺す。今度こそ、ジェイドを永遠に私のものにするのだ。

 もうこの世界に救いようの無いことは分かっていた。
 ルークも、ティアも、アニスも、ガイも、ナタリアも死んだ。民衆は預言を遵守しない為政者たちやローレライ教団を非難し、一斉蜂起し、彼らを国から追い出した。そう、サフィールから聞かされた。
 馬鹿だ。自分たちの未来を誰よりも案じてくれた人々を切り離すなんて。私は人間の愚かさと弱さに、やはり、と失望させられた。
 守る価値のある世界だったのだろうか? そんな問いが、自分の中で首をもたげる。
 何故私はこの世界を守るべきだと判断したのだろう。何故私は、ヴァンたちのほうが狂っている、間違っていると断言することができたのだろう。
 私の人間性を育ててくれたのはネビリム先生だった。それまでの私は、人も魔物もその命がいくら失われようと気にも留めなかった。周りの人間はみんな馬鹿で、この地上で自分だけが偉いのだと思い込んでいた。
 ネビリム先生は、私に生あるものの尊さを教えようとしてくれた。その努力が功を奏したかは、子供時代の私に対しては微妙なところだったが。少なくとも、他人を敬う気持ちを教えてくれたのは彼女だった。
 しかし、ネビリム先生は亡くなった。私が殺してしまった。
 では、そのあとに命の価値を教えてくれたのは? 生物レプリカを禁忌とすることのきっかけを作ってくれたのは誰か? 誰の命令で私は戦争を回避するための和平の使者となった?
 ピオニーだ。友達だとか、上司だとか、そんな型に嵌まった表現では彼は語れない。彼との関係性には、彼の名前を付ける他良い単語が思い浮かばない。それくらい、ピオニーは掛け替えのない存在なのだ。それを直接言うことは、永遠に無いだろうが。
 私には、彼しかいないのだ。
 思えば、研究院を辞めてなお軍属でいたのは、ピオニーの命を守るためだった。彼の国を守るため。彼のいるこの世界ごと守るため、私は戦っていた。戦い続けてきた。
 だが、ピオニーはもはや皇帝ではなくなった。彼の国民たちは彼を裏切り、大地と共に滅びた。もうピオニーの国も、民も、残っていやしない。
 ならば、本当に守るべき価値があるのは、ピオニー自身だけではないか。救いの道を絶たれ、すべてを失ったこの世界で、守られるべきは彼だけではないのか?
 それに気づいたとき、迷いはなかった。ピオニーだけでも、生き残ってくれればいい。そう思った。
 だから、サフィールに頭を下げた。私一人では、もう対処しきれないところまで世界は墜ちてしまった。ここがどこかも分からないのに、ユリアシティに単身乗り込んでピオニーだけでも救出するなど、不可能に近いと確信した。本当は、この手で彼を救いたかった。でもそれはできそうにない。だから、サフィールに頼むことにした。
 恥も外聞も捨てた。ネビリム先生を作らないという、ピオニーとの約束さえ、犠牲にした。彼さえ生き残ってくれればいい。私が彼からどう思われようと、他の人々がどうなろうと、もう構わない。
 それなのに。何故、サフィールは断ったのだろう。あんなに望んでいたネビリム先生の復活さえ、遂げようとしたのに。何故最後になってピオニーを救うことを拒絶したのか。まったくもって理解に苦しみ、絶望した。
 何度も、何度も、人間に裏切られた。彼らの善性を少しでも信じるほうが馬鹿なのだと、思い知らされた。人は変われると教えてくれた仲間たちまでもが、死んでしまった。
 もう何も信じない。信じるのは、己と、ピオニーだけだ。私はたった一人でもユリアシティに向ってみせる。私が諦めるのは、ピオニーの命が失われるときだけだ。
 絶対に、そうはさせない。必ずあなたを守ってみせる。
 私は脳の焼ききれそうな勢いで、脱出の方法を考え続けた。

 ユリアシティは創世歴時代の譜術障壁を展開し、何者をも拒む強固な砦と化していた。
 立て籠もっているのはユリアシティ市民と、逃げ込んできた預言否定派の為政者たちと一握りの民、そしてアッシュだけだろう。中にいる人間の数は決して多くない上、非武装の者がほとんどのはずだ。障壁を突破し内部への道を開くことができれば、被験者最後の街の陥落は目前に違いなかった。
 その日、ヴァンは私を含む六神将と兵士を引き連れ、戦艦でユリアシティに攻め入った。譜術障壁は通常の譜術では歯が立たないほど強力だったが、第七音素譜術士の兵士二人に疑似超振動を起こさせ穿つことで、難なく突破できた。
 内部に侵入すると、カイザーディストXXに敵兵士や市民の殲滅を任せ、私は椅子に乗って高みの見物に興じた。私に課せられた役割は、倒れる被験者からレプリカ情報を採取することだった。
 カイザーディストXXが蹂躙して回った跡から、レプリカ情報を集める。作業は順調に進んだ。
 しかし、肝心のあの皇帝の姿が見当たらない。私が止めを刺すべき男はどこにいるのだろう。その影を求め、私は地上に降りた。その判断が間違いだった。
 駆け寄る気配に気づいたときにはすでに遅く、背後から組み付かれた。私を羽交い絞めにする屈強な腕は浅黒く、視界の端に映る服には見覚えがあった。
「ジェイドを返せ!」
耳元で叫ばれたのは、今私が屋敷の地下に監禁している男の名。ああ、彼の言った通りだ。この男は愚かにも、ジェイドの生存を信じその帰還を待ち続けていたのだ。
「は、なせ、ピオニー」
カイザーディストXXを呼ぼうとしたが叶わず、椅子から引きずりおろされてしまった。体術を習得している皇帝に腕力で敵うはずがなく、私は地面に伸ばされた。
 悔しさと怒りで顔面を歪めながら、馬乗りになったピオニーを睨みつける。
「今すぐ離しなさい、さもなければ」
「さもなければ、なんだ。今回はさすがにおいたが過ぎるぞ、サフィール」
かつてこれほどまでに険しいピオニーの顔を見たことがあるだろうか。今のピオニーは上に立つ者ならではの覇気と威圧感に満ちていた。その瞳の強い青に飲み込まれたまま、息ができない。
 これが、これが皇帝。やはり私はピオニーには勝てないのだ。目じりに涙が浮かんだ、そのときだった。
 きらめく刃が、ピオニーの体を薙ぎ倒した。血飛沫が飛び、私の顔に生暖かいものがかかった。
 目の前に現れたのは剣を構えたヴァンだった。私を助けに来てくれたのだろう。転がるピオニーの体に、彼の剣の切っ先が向く。
「ヴァン、やめろ!」
咄嗟に口をついて出た。私の言葉に何を感じ取ったのか、ピオニーの目がこちらに向いた。その瞳に浮かんだ色から彼の真意を窺えぬまま、ピオニーは体を貫かれた。
 ヴァンが幼馴染の胸から血に濡れた大剣を抜くのを、茫然と見ていた。腰を抜かしたままでいる私を、ヴァンは見下ろす。痛ましいものを見るように、彼は太い眉を寄せた。
「すまなかった、ディスト。あなたの身が危ういと思ったのでな。約束通り、止めを刺させなくて申し訳ない。この埋め合わせは、いずれ必ずしよう」
そう言って、ヴァンは周囲に敵がいないか探すため去って行った。
 私はしばらく地面に座り込んでいた。ピオニーに捻られた腕がずきずきと痛んだが、その感覚は他人事のように遠く感じられた。やがて自分のすべきことを思い出し、不自由でない方の腕で注射器の詰まったポーチをまさぐる。
 彼のレプリカだけは、作りたくないと思っていた。思っていたはずだった。しかし、何故今私はピオニーのレプリカ情報を抜き取っているのだろう。
 仕事だから? 命令だから? そうだ、そうに違いない。私自身がピオニーのレプリカを作りたいと思っているなんてことは有り得ない。最後の皇帝。玉座をその血で染めるべきだった君主。ジェイドを奪った仇。新しい世界に、彼のレプリカは要らない。ジェイドと再び築き上げる幸せな時代に、お前の席は無い、絶対に。
 そう頑なに思っているはずなのに。何故私はピオニーの金色の髪から髪飾りを外したのだろう。グランコクマを流れる水のように清らかな光を湛える宝石でできたそれを、紫の空に透けるレムに翳しているのだろう。
 何故この瞳から熱い液体が流れているのだろう。
 分からない。分からないことだらけだ。
 私はしばらくピオニーの遺体の傍に立ちすくんだまま、彼の髪飾りを見つめていた。

 ユリアシティでの人類最後の戦いは、新生ローレライ教団の圧勝に終わった。
 アッシュだけは生け捕りにされ、ヴァンがエルドラントへ連れていった。ローレライの剣も破壊された。これで新生ローレライ教団の行く手を阻む者は完全にいなくなったと言えるだろう。私たちは勝利した。
 しかし、私はそんな美酒に酔うことができなかった。いつものように虚勢を張ることも、他の六神将たちに合わせて喜ぶこともできず、事後処理が終わった後はひたすら家路を急いだ。ひとりになりたかった。
 屋敷に着いたのは普段より遅い時間だった。正面玄関を入ってすぐ、異常を知らせるアラームが耳に飛び込んできた。急いで自室に戻り、モニタを確認する。画面に映る檻の中に、囚人の姿は無かった。私は全身の血の気が引いていくのを感じた。
 ジェイドは今どこに? まだ屋敷の中にいるのか、それとももうすでに遠くに行っているのか。
 私は取り敢えず護身用の譜銃を持ち、地下室に向かうことにした。
 彼がこの屋敷から出ていないのだとしたら、いつどこから襲われるか分からない。存分に注意しなくては。全身の神経を張りつめさせて、私は部屋を出た。
 廊下の角を曲がるたびに心臓が止まりそうになりながら、地下室への扉を目指して進んだ。ついに扉の前に辿り着く。深呼吸をして、恐る恐るドアノブを回した。真黒な口がぱっくりと開き、私を暗黒の世界へと誘った。
 しかし、私はすぐに階段へと足を踏み出したわけではなかった。果たしてそこに、地下へと至る階段の一番上に、ジェイドは横たわっていたからだ。
「ジェイド!」
気絶しているなら起こしてはいけないと頭では分かっていても、名前を読んでしまう。私はジェイドに攻撃されるのではという危険性を一切度外視していた。うつぶせになった体をゆすると、苦しげな呻き声が聞こえた。
「ピオニー…?」
ジェイドの唇から漏れたのは、彼が必死に求めていた人の名だった。かの人のもとへ辿り着くため、ジェイドは脱出不可能と思われた檻からやっと抜け出し、ここまで来たのだろう。
 しかし、彼は地下室から出ることはできなかった。この地上と地下とを隔てる扉は、私の照射した音素にのみ反応して開く仕組みになっている。例えジェイドが知略の限りを尽くしたところで、絶対にこの扉は開くことができない。
 私自身も先程はそれを失念していたので、ジェイドが完全脱出したのではと焦りに焦ってしまったが。
「ピオニー、そこにいるのか? 真っ暗で何も見えない。いるなら返事をしろ」 
ジェイドの言葉から、何かがおかしいことに気づく。まさかと思い彼の体をあお向けに起こすと、ジェイドは眼鏡をかけていなかった。開いた双眸の中で彼の瞳は焦点が合っておらず、あらぬ方向を見つめている。
 失明だけではない、記憶も混乱しているようだ。譜眼が暴走したのだ。
「ジェイド、何故眼鏡をかけていないんです」
私が咎めるように訊くと、ここにいるのがピオニーではないと知ったジェイドの表情は途端に失意に飲まれた。
「サフィールか…ここはどこだ…」
憔悴しきった声で問う。私はジェイドが起き上がって逃げ出さないよう、地下室の重い扉を閉めた。外の光は締め出され、音素灯の頼りなげな明りしかない暗闇の中にオートロックの音が響いた。それを確認してから、口を開く。
「地下室ですよ。あなたは檻からの脱出には成功しましたが、最後の扉だけは開くことができなかったんですね。それより」
私は床に落ちているジェイドの眼鏡をかけさせる。ジェイドの失明が一時的なものであれば、譜眼を抑えて治療を行えば視力は戻るはずだ。私は彼に言い聞かせるように厳しい口調で言った。
「質問に答えなさい。何故眼鏡を外したんです。譜眼が暴走すれば命は無かったかもしれないのですよ。あとできちんと診ますが、視力だって戻るかどうか…」
おそらく彼は、強力な譜術で扉を破るため、眼鏡を外して音素を取り込もうとしたのだろう。ジェイドにとっては命の危険もある最後の手段だったはずだ。それだけ皇帝のもとに辿り着かねばと必死だったに違いない。
「そんなことはどうでもいい。早く陛下のところに行かなければ」
ジェイドは取り合わず、体を起こす。そのまま立ち上がられては階段を踏み外す危険性があるため、私はその腕を押さえた。
「まずは檻に戻ってもらいますよ。大人しくしていれば私も手荒な真似はせずに済みます」
「触るな、サフィール」
強い力で、手が振り払われる。止めようとしたときには遅く、立ち上がった彼はふらついて階段に向って倒れてしまった。
「ジェイド!」
すかさずジェイドの腕をつかむ。しかし、ジェイドが私を引き寄せる力のほうが強く、二人揃って階段を転げ落ちる羽目になった。私は彼にしがみつきながら、腕を伸ばしてジェイドの頭を守った。

 全身の痛みに呻きながら目を開ける。目の前には、同じく眉根を寄せるジェイドの顔があった。
 ジェイドは床に倒れ、その上に私の体が覆いかぶさっていた。彼を庇っていた私の両手の甲は皮膚が破け、血が流れている。ジェイドが無事ならそれでよかった。
「無茶をしないでください。あなたは今目が見えないんですから。できるだけ動かないでください」
「また私を捕縛するつもりだろう。そうはさせない」
起き上がろうとしたジェイドの厚い胸板を、渾身の力で押さえつける。
「逃げ出したところであなたは別の六神将に見つかって殺されてしまいます。私の屋敷にいたほうが安全ですよ」
それは事実だった。今やこの地上の支配者はヴァンと六神将だ。ジェイドが生きていることが知られれば、レプリカ情報を抜き取ったのちすぐに命を奪われてしまうだろう。それだけは防がねばならなかった。それをジェイドが信じてくれるとは到底思えなかったが。
「こんなところに閉じ込められたままでいるなら死んでいるのと変わらない。サフィール、私をここから出せ」
私たちは互いの両腕をつかみ合った。体格は俄然ジェイドのほうが優っているので普通なら私が彼に組み伏せられるところなのだが、ジェイドは今封印術をかけられ体力が落ちている。私の軽い体重と腕力でも、なんとか彼を床に縫いとめることができていた。
「そうはさせません。そもそもあなたが帰るべき大地はもう無いというのに、どこへ行くというんですか?」
「ユリアシティに決まっている。そこにピオニーがいるんだからな」
私はその言葉に答えられず、黙ってしまう。その間を怪しんで、ジェイドが訊いた。
「サフィール、どうして黙っている。ユリアシティを攻めるのは今日なんだろう? 今お前を倒して向かえば、間に合うかも――――」
「ユリアシティは陥落しました」
時間の感覚が戻らないジェイドを、現実を告げることによって制する。彼は小さく息を呑んだ。
「ユリアシティの人々は」
ピオニーは、とその声は質しているようだった。彼の真意を無視して、私は聞かれたことだけを機械的に答える。
「皆殺しです。六神将と兵士たちで、街の隅々まで人間を探して殺して回りました。おそらく、生き残りはいないはずです」
「陛下は」
ジェイドの声は切なげだった。私は答えに窮する。いざとなると、ジェイドにとって最も残酷な事実を突きつけてしまうのは躊躇われた。自分が皇帝を殺すと宣言しておきながら、真実を告げることができないのは何故だろう。
「私たちの味方に付いていた被験者も、街と一緒に爆破しました。レプリカ計画の完全な遂行のためには、仕方のないことでした。この地上で残っている被験者は、ヴァン、リグレット、ラルゴ、私、あなた、そして超振動を使わせるため捕えたアッシュだけです。シンクは元々レプリカですしね」
「陛下は、どうした。お前が殺したのか」
私は再び黙り込む。ジェイドの顔が険絶なものへと変わる。
「答えろサフィール」
有無を言わさぬその声に、私はしずかに答えた。
「私はピオニーに、止めを刺せなかった」
「じゃあ誰が」
「ヴァンが、殺してしまいました」
ジェイドの剣幕から、熱が引いていった。現実を受け入れるように、徐々に表情が失われていく。
「…ヴァンが」
確かめるように、ジェイドは繰り返した。その顔があまりにも痛ましげだったので、
「ジェイド、私、やめさせようとしたんです。でも」
言い訳しかけたが、途中でやめた。そんなものに意味などないし、弁明する私を私は許さないだろうと思ったからだ。
 長い沈黙があった。その間、逆上したジェイドに殺されるのではないか、という妄想さえ抱いた。それでも構わなかった。私は、ジェイドの大切なものを奪ったのだから。おそらく、己にとっても。
「陛下は、死んだんですね」
ようやく発せられたのは、そんな言葉。恐ろしく無感情で、他者への関心を感じさせない、空っぽの声だった。口調こそ丁寧だが、私は背筋が凍る思いがした。
「はい」
乾いた声で答える。ジェイドは微動だにしない。地下室はとても静かだった。ジェイドが唇を開く音さえ、聞こえるほどに。
「ひとりに、してください」
私はジェイドを押さえつけるのをやめ、彼の体から離れた。ジェイドの手を取り、彼が起き上がるのを手伝う。ジェイドは自ら檻に入りたがるように、鉄格子を探して手を彷徨わせた。私は彼を誘導し、ジェイドを獄中のベッドに座らせる。再び枷を付けることはしなかった。
 檻の扉を閉め、鍵を回した。そのまま何も言わず、ジェイドに背を向けた。地下室から出るまで、彼から言葉が発せられるのを聞くことはなかった。
 その夜、私はネビリム先生に叱られる夢を見た。眠りの中で先生に会うのは久しぶりだったが、ちっとも嬉しくなかった。幼馴染を守れなかった罪は重いと、彼女は言った。私は子供時代と同じように、はい、先生、と首肯した。
 夢の中の先生は私を許すことはなかった。謝れば最後には必ず笑顔を見せてくれる女性だったのに。

 それからジェイドは、食事をほとんど取らなくなったし、滅多に喋らなくなったし、ベッドの上で動かなくなった。無駄な抵抗をすることは完全にやめたようだ。当然だ。救うべき世界と人をなくしたのだから。視力を失わずに済んだのは幸運なことだったが。
 私は悩んだ挙句、ジェイドを地下から屋敷内の部屋に移すことに決めた。もちろん彼の監視と監禁は続けるが、せめて人間らしい生活の中で心身の健康を取り戻してほしいという思いがあった。その決定を伝えると、ジェイドは従容と従った。
 レムの光の差し込む清潔な部屋で、私は病人を扱うように彼に接した。しかし、ジェイドの具合は一向に良くならなかった。日に日に細くなっていく体、血色が悪くなる頬、生気を失った目。私が現在の新生ローレライ教団の進捗を伝えても、興味がなさそうに生返事をするだけだった。
「…レプリカの作成は順調に進んでいます。いきなりオールドラントの全人口を作成するのは管理面で問題があるので、先に後から生まれる者の管理者となるレプリカを作り、教育しています。予定では三年で全人類のレプリカが完成する予定です。アッシュの超振動を用い、ヴァンの中に閉じ込めたローレライを消すのはそれから行います」
私が部屋を訪れても、重要な報告を話しても、ジェイドは一向にこちらに関心を寄せなかった。私が話し終えるとやっと一言、
「…そうですか」
と漏らすのみだ。だが、次第にその言葉さえ言わなくなり、ジェイドは完全に沈黙した。
 ある日、ついにジェイドが丸三日食事に手を付けないということがあった。それまでも何度も食事を抜かれたり、ほとんど食べないということはあったが、三日間も何も摂らないということは初めてだった。我慢の限界に達した私はベッドに身を乗り出して彼を叱責した。
「食事を絶って衰弱死して、ピオニーの後を追うつもりですか」
ジェイドは濁った瞳で私を見つめ返す。そこに何の感情も、無い。
「そうはさせませんから。ちゃんと食べてください」
無理矢理スプーンを口に運び込もうとすると、叩き落され、床を転がる金属のカラカラという音が響き渡った。
 スプーンを拾い上げ同じことを繰り返そうとすると、ジェイドの空虚な瞳にわずかに感情らしきものが宿っているのが見られた。
「何故私を生かし続ける。私を殺して私のレプリカを作ればいいじゃないか」
久しぶりに聞いたジェイドの声は掠れていて、以前のような覇気など微塵も感じさせなかった。それでも、その問いに私は返答を詰まらせた。
 私の中には、おそらくジェイドを納得させ得る答えらしきものはない。まさか、あなたに生きていてほしいから、と至極単純な理由を述べたところで今のジェイドの心に届くわけがない。私は苦し紛れに言った。
「あなたにはこの世界がどう変革するか見届ける役割がある。最後に生き残った、六神将以外の被験者として。ただそれだけのことです」
ジェイドは聞き終えるとまたそっぽを向いて、こちらが言葉をかけても応じなくなった。私は諦めて部屋を離れた。

 ジェイドにピオニーの死を告げてから一か月近くが経とうとしていた。
 食事を一切摂らなくなった彼はかつての面影もないほどやつれた。年相応に見えないと賞賛された美貌は痩せ切ることによって凄みを増したが、痛ましいばかりで鑑賞に堪えるものではなかった。話しかけても反応がないジェイドを、簡単な報告と生死確認のためだけに私は訪れていた。
 その日、私は半ば投げやりにジェイドに問いかけた。
「もしも私がピオニーやネフリー、先生のレプリカを作ったらあなたは元に戻ってくれるんですか」
ジェイドはベッドに横たわったまま動かない。当然、返事は無かった。
「元に、というのは子供時代の頃のあなたという意味ではありません。せめて、ピオニーが生きていたときくらいに生気を取り戻してほしいんです。駄目ですか」
こちらの話を聞いているのかも分からなかった。それでも私は語り続ける。
「ねぇジェイド。気が付いたんです。私はあなたに笑っていてほしかっただけなんだって。あなたの笑顔を取り戻したかったからネビリム先生を甦らせようとしたし、今だってあなたがまた憎まれ口を叩いてくれるようになるなら、ピオニーを生き返らせることも厭わないと思っている。
 あなたは信じてくれないでしょうがね。それか、そんなことですか、って興味なさげに言うんでしょうね」
少し迷ったのち、ジェイドの顔にかかる髪をかき上げた。閉じた瞼が目に映る。狸寝入りか、本当に眠っているのか。分からないが、それを確かめる気にはなれなかった。
「あなたはやはり、私を振り向いてくれることは無いんでしょうね。誰のレプリカを作っても、私を見てくれることは絶対に無いんでしょうね」
もはや私の声は届かなかった。ジェイドの心は、私の手の届かないところに行ってしまった。あの皇帝が連れて行ってしまった。あいつは、死してなおジェイドを離さなかったのだ。
 その断絶に、胸の焼かれる思いがした。

 翌日のこと。部屋のドアを開けた私は、瞠目した。ジェイドが起き上がり、背筋を伸ばしてベッドに腰掛けていたからだ。その顔は憑きものが落ちたように穏やかで、私の姿を認めるとにっこりと笑いかけてきた。私は自分の目を疑った。一体彼に何が起こったというのだろう。
「サフィール、鏡を貸してくれませんか」
開口一番、ジェイドはそう頼んできた。私は面食らいながら答える。
「貸せないと、以前言ったでしょう。今のあなたは尚更危険なことに使いかねませんし、だめです」
私がきっぱりと言うと、ジェイドは子供が拗ねるときのような、あからさまに不満げな表情を呈した。
「いいじゃないですか。鏡に映った自分が見たいんです。では鏡を持ったあなたが目の前に立っていてくれるだけで構いませんから」
その声に以前のような毒気は無い。彼の意図も全く読めない。私はますますわけが分からなくなった。
「今更何故です。最近のあなたは身だしなみに気を遣っているようには見えませんでしたが」
「ネフリーに会いたくなったんです」
「はい?」
全く予期しなかった答えに、私は間抜けな声を出す。聞き間違いでなければ、彼は死んだ自分の妹に会いたいと言ったか。二か月にわたる監禁。大切な人の死。ついに、気が狂ってしまったのか。
「私たち、似ているでしょう? 鏡を覗けば、彼女に会える気がして。ネフリーに話したいことがたくさんあるんです。彼女に会わせてください」
必死に頼み込むジェイドは、決して冗談を言っているようには見えなかった。彼は正気ではないのだ。
「ジェイド、ネフリーは死んだんですよ」
「何を言ってるんです。ネフリーならそこにいますよ」
そう言ってジェイドは私の体の隣を指さす。もちろんそこは何もない空間だ。冷や汗が流れた。
「ここには私とあなたしかいませんよ。あなたが見ているのは幻覚です」
私が震える声で告げると、ジェイドはさも困ったように首を傾げた。
「そんなことありません。あなたこそ、居るはずの人間が見えないなんて、おかしくなったんじゃないですか? いや、元々おかしいか」
自分の言ったことに、ジェイドは乾いた笑い声をあげる。かと思えば次の瞬間、恐ろしいほど真剣な顔つきに変わる。
「早く鏡を持ってきなさい、サフィール。私の言うことが聞けないんですか?」
その口調は有無を言わさぬものだった。狂った彼に何を言っても無駄だと思った私は、一種の諦観を抱いた。
「分かりました。持ってきますから、少し待っていてください」
「ありがとう、サフィール」
一瞬で頬を緩ませ、ジェイドは素直に礼を言った。鳥肌が立った。
 私は急いで自室に戻り、適当な手鏡を持ってジェイドの部屋に戻った。鏡を差し出すと、ジェイドは大喜びでそれを私の手から引っ手繰った。そして礼も言わずに、鏡に映った自分の顔に向って喋り出した。
「久しぶりですね、ネフリー。お元気でしたか? そうでしたか、それは何よりです。いえ、任務で近くを通りがかったので、兵を休ませるついでにケテルブルクに立ち寄ったんです。さぼりだなんて、とんでもない。私はいつでも仕事の忠実な僕ですよ。はは、ネフリーも言うようになりましたね。…良いニュース? 何でしょう…おお、新しい命が。それはおめでとうございます。体を一層大事にしてくださいね。何か月ですか? ああ、もうそんなでしたか…そろそろ休まれたほうがいいのでは? 陛下には…うーん、もちろんあなたのことを祝福するとは思います。誰よりもあなたの幸せを願っていた方ですから。なんなら私からお伝えしておきましょうか? はい、お任せください。アフターケア? 心配するには及びませんよ、ネフリーは優しいですね。陛下は相変わらずですよ。いい加減、花嫁を迎えていただきたいものですね。重役たちはもちろん国民も心配しています。全くいい加減にしていただきたい…いえ、あなたは気に病む必要は一切ないんですよ。あの皇帝が勝手に引き摺っているだけのことですから。え? 私ですか? 私は花嫁にはなれませんよ~男ですからね。でも、そうですね、お似合いと言われるのも悪くないかもしれませんね」
私は耐えきれなくなり、その場から逃げ出した。部屋から出てその扉にもたれかかっている間、ジェイドの虚像に向かって語りかける声が聞こえていた。
 自室に戻っても、モニターの脇に取り付けられたスピーカーからジェイドの独り言が流れていた。そのうち止むだろうと思ってしばらく放っておいたが、その声が途切れることはない。耳を傾ければ、彼は仕事仲間の幻覚とまで話しているようだった。
 恐怖を覚えた私は、マイクの音声をオフにした。そのままベッドに入って眠った。
 だから、夜更けに響いた派手な割音には気付かなかった。

 早朝、私はスピーカーから流れる警告音で目が覚めた。
 飛び起きてモニターを確認すると、「生体反応虚弱」のメッセージが真っ赤な文字で表示されている。果たして、画面の中央に、大量の血を流して倒れるジェイドが映っていた。
 頭を鈍器で殴られたときのような、気が遠くなる感覚に襲われる。私は着の身着のままで、急いでジェイドの部屋に向かった。
 入り口の音機関に音素を照射し、乱暴に扉を開ける。
「ジェイド!」
彼はベッドの脇にあおむけに倒れていた。ジェイドの首から噴出した血が、彼の周りに真っ赤な池を作っている。ジェイドの手には割れた鏡の破片があった。
「なんて馬鹿なことを…」
私は彼に鏡を渡したことを激しく後悔したが、今はそんなことに気をとられている場合ではなかった。
「ジェイド、しっかりしなさい! 眠ってはいけません!」
ジェイドの傍に膝をつくと、彼の頸動脈に指を押し当てて生死を確認した。まだ、微かな拍動が感じられる。
 しかし、この出血量ではどのみち助からないだろう。私は治癒士ではないし、治癒士を呼ぶこともできない。
 ならば、ジェイドを救う道は一つしかない。
 それが罪の再現―――ネビリム先生を死なせたときと同じ―――だとしても、ジェイドを失うわけにはいかない。
 私はその場でできる簡単な止血を行うと、実験室に注射器を取りに行った。数えきれぬ人々に用い、あまりにも手に馴染んだ器機を手に部屋に戻る。
 もう後戻りはできない。レプリカ情報を抜き取れば、ジェイドは完全に助からなくなる。
 一瞬躊躇いが生じたが、振り払い、ジェイドの細い腕にその針を刺した。
 ジェイドの血液中に第七音素が注入され、彼の体が淡く光る。「ゆらぎ」が生じたのだ。それをフォニミンに吸収させるため、今度は押子を引く。注射筒は血液で満たされ、ジェイドの皮膚は輝きを失った。
 あと数分で、ジェイドは彼岸に逝くだろう。幾度となく似たような場面を繰り返してきた私にとって、そのような見立ては容易だった。
 不思議と涙は流れない。ピオニーとネビリム先生のときは泣いたのに。私の心はジェイドが死にゆくという事実を受け入れられないのだろうか。あまりにも、彼の存在が大き過ぎて。
 ジェイドは私の神様だった。少年時代はいつもジェイドが隣にいたし、彼と離れてからも、幼馴染のことを思い出さない日はなかった。いつも心の中にジェイドがいて、私は彼と共に生きてきた。ジェイドにそのつもりはなくても、私にはそう断言できる。
 そして、これからも。ジェイドは私の中で生き続ける。彼の心臓が止まっても、彼の記憶と、魂は不滅だ。
 私はジェイドの軽い体を抱え上げ、ベッドに丁寧に横たえた。彼の顔に飛び散った鮮血をふき取り、髪を手櫛で整えてやる。その額に、最初で最後の口づけを落とす。
「あなたは私に勝ったのです」
自分の胸のポケットからピオニーの髪飾りを取り出し、彼の手に握らせた。
 せめて最後は外の空気を吸わせてやろうと、閉め切っていた部屋の窓を開け放つ。清浄な風が吹き込み、白いカーテンを揺らした。
 ちょうど日が昇るところだった。差し込む暁光に目を細めたとき、後ろでジェイドが呟いた。気がした。
「待ってよ、ピオニー」
はっとして振り向けば、ジェイドは穏やかな表情で眠っている。それはあまりにも小さな声だった。今のジェイドが喋れる状態にあるとは思えなかったため、一瞬空耳を疑う。
 けれども、私は確かにきいたのだ。死の直前、彼が伴侶たる皇帝の名を呼ぶのを。
 ああ、やはり。あなたはピオニーのものだったのですね。
「おやすみ、ジェイド」
私は髪飾りを握ったジェイドの手を自分の手で包み込んだ。
 やがて、ジェイドはしずかに息を引き取った。
 
 私はジェイドを屋敷の庭の日当りのいい空き地に埋葬した。その行為には様々な贖罪が込められていた。しかし、すべては後の祭りだった。被験者のジェイドは永遠に戻らないのだから。
 幼馴染を喪って、生体レプリカを作ること、その意味を、その罪深さを、私は初めて真っ向から考えることになった。
 私がジェイドからレプリカ情報を抜き取ったときの状況は、ジェイドがネビリム先生を失ったときのそれと一見似ている。同じ行為を繰り返しているようでその実、私とジェイドの動機はあまりにもかけ離れていた。
 ジェイドは失敗の露見を恐れて先生のレプリカを作ろうとした。音素を暴走させ先生を害した自分を救うため、複製を作ることで何もかも元通りにしようとした。しかし、私は違う。私は純粋に、大切な友達の命を留めるために彼のレプリカ情報を抜き取った。
 いや、果たしてそうだろうか? 私もまた、私自身を救うためにジェイドのレプリカを作ろうとしているのではないか? 被験者のジェイドは死んだ。その事実は変えられない。私は彼のレプリカを作って、記憶のないレプリカに何を望む? 私自身にどんな変化を求める?
 ジェイドと私は、何も変わらないのだ。私もまた、自分のためにジェイドのレプリカを作ろうとしている。そもそも生者が死者を甦らせるという行為自体、遺された生者のエゴでしかないのだ。
 かつて人間の死を超越しようとした馬鹿な子供たちがいた。二人は両手を真っ赤な血で染め上げた挙句、その願いを叶えることはなかった。叶わなくてよかったのだ。倫理に、己の師に、大切な友達に背くような、願いと言う名の私欲など。
 私はそんな簡単なことに、今頃になって気が付いた。視界が透明になり、犯してきたあらゆる罪が私の前に整然と並べられた。初めて自分の過ちと向き合った。
 レプリカは、別の人間。偽物でも代用品でもない、唯一無二の存在。レプリカを生んだ人間たちがレプリカを誰かの代わりにしようなどと、道具にも似た扱いをするのは、馬鹿げている。それは許されることのない罪だ。
 ジェイドはこれを知っていた。彼が生物レプリカを禁忌としてから、向き合い耐え続けてきた重圧がこれほどのものだったとは…。
 それでも、それでも私は、ひとりの男のレプリカを作る。
 自分の犯した罪に煩悶としながら何もせずに過ごすことが、レプリカ情報を抜かれ死んでいった被験者たちや生まれてくるレプリカたちへの贖罪であるはずがない。
 命の複製は罪なのかもしれない。しかし、生まれてきた命に罪は無いのではないだろうか?
 レプリカが自らの生の意味を肯定できるように。
 彼らが偽物や代用品ではなく、本物の人間であるということの証明のために。
 私はジェイドのレプリカを作る。
 彼を被験者の代わりにするなんてことはしない。一人の人間として、レプリカジェイドを愛そう。人権と人格を備えた、愛されるべき存在に、この手で育てよう。
 彼が生まれてきて良かったと、幸せだと微笑んでくれるように、私は命を賭けよう。
 ジェイドと私の罪を贖うために。
 私たちの過去を、祝福へと昇華するために。

 フォミクリーの台座の周りが輝き始める。音素が光の粒となって宙を舞う。
 幾度となく目にした光景だというのに、私は初めて、それを綺麗だと思った。
 私は実験室の中央に立ち、レプリカが作成される様を注意深く見守っていた。
 生命がこの世に生まれ出る瞬間。ふと、妻の出産を前にした父親はこんな気持ちなのだろうかと、疑問が湧いた。
 やがて音素はひとつの形を目指して集まり始める。二本の足、二本の腕、胴体と、卵型の頭。
 収束する音素はやがて燐光を失い、私は台座の上に横たわるその人を見た。
 作成は終了した。私は彼を包んでやるための毛布を手に取り、部屋の脇にある階段を上る。
 台座の上で、彼は横臥し、頼りなげな声を上げていた。  
 私はこのレプリカに、敢えて知識を刷り込むことはしていなかった。歩き方も、言葉も、すべて一から私が教える。それが人の親になる、ということだと思ったからだ。
 彼の正面に立った。一瞬、名前を呼ぶことができず声を詰まらせる。そのとき、彼の瞳が私を捉えた。
 彼は起き上がり、きょとんとした表情で私を見つめる。それは、初めて目にするジェイドの無邪気な表情だった。
 いや、これはジェイドではない。レプリカは、被験者とは別の人間だ。だから、これが私と彼の初対面なのだ。
「はじめまして、ジェイド」
私は微笑み、彼の名を読んだ。様々な感情が入り混じり、声が震える。これではいけない。私の不安がレプリカに伝わってしまう。気丈に振る舞わねば。
 しかし、生まれたばかりのジェイドは泣き出すことも、心配そうな表情も見せることもなかった。
 彼は首を傾げる。亜麻色の髪がさらさらと、なめらかな肩を伝って流れた。
 そして、私の表情を真似るかのように、ジェイドは微笑んだ。
 その笑みがあまりにも美しくて。まだ何の感情も知らない透明なもので。とても愛おしかったから。
 私は思わずレプリカを抱き締めていた。彼の裸の体に腕を回し、その首に顔を埋める。
 レプリカは不思議そうに、うー? という声を漏らした。
 その声にこたえるように、私はより一層強く彼を抱いた。
「生まれてきてくれてありがとう、ジェイド」
すべての生命への祝福を込め、私は言った。



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 あとがき:

 暗くてすみません…ヤマの無い話でしたが、一応最後まで書けたのでほっとしております…でも誰が本当に救われたのかちょっとよく分からないですよね…すみませ…
 現在続きを書いております。次はレプリカジェイドが主人公格になっていたり、レプリカ世界の描写があったりするため更に捏造警報を鳴らしながら公開することになるかと思います…12月にあるTOAの大事な記念日に間に合うよう原稿しておりますので、楽しみにしていただければ幸いです。
 蛇足ですが、原稿中のBGMは鬼束ちひろさんの「call」でした。本編中のディストの心情はちひろさんの曲の歌詞そのまんまです。興味を持たれましたら是非聴いていただきたいです。 
 ここまで読んでくださり有難うございました!
 最後になりましたが、ジェイド誕生日おめでとう!!
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【TOA】さがしもの

 ED後のピオニーと研究員ディストの日常話。ディストはジェイド大好きです。

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 ジェイドが長い旅から帰ってきた。これは、彼がサフィールを助手としてレプリカ研究を再開して、しばらく経ったある日のお話。
 

 さがしもの

 
「ない、ない、どこにもない…」
ピオニーがサフィールの私室を訪れたとき、幼馴染はガラクタの山の中で忙しなく手を動かしながら、焦りの滲む呟きを漏らしていた。
 サフィールの私室は混沌だった。いつもは譜業の部品やら道具やらが散らばっている机の上には、何に使うのかも分からない音機関が雑多に積まれている。床中には書類が散らばり、そこかしこに本や用途不明の私物の山がいくつもできていた。
 サフィールはその中のひとつをひっくり返し、品物を一つ一つ検めながら、何かを一心不乱に探しているところだった。彼が部屋の入り口に立ち自分を観察しているピオニーの存在に気づく気配は全く、無い。
 余りにもサフィールが必死そうなので、普段ならドアを開けるなり大声で呼びかけるピオニーも、しばらくは声をかけるのをためらわれた。しかし、いつまでも幼馴染の不毛な探し物を眺めているわけにもいかない。
 サフィールが額の汗をぬぐったタイミングを見計らって、ピオニーはドアの内側をわざと大きな音を立ててノックした。厚いオークのドアに拳が打ち付けられる音が響いた瞬間、サフィールの肩はびくっと跳ね、
「はい!?」
ひっくり返った間抜けな返事が彼の口から飛び出す。しかし、驚きとともに振り返った顔は、部屋を訪れたのがピオニーであると認めた瞬間、不満げに歪んだ。
 ジェイドが来るのを待ち望んでいた期待の反動の落胆、そして昔から振り回されてきた幼馴染がまた自分をからかいに来たことへの警戒心。作業を中断されたことへの苛立ち。
 様々な感情が入り交じり、彼の細い眉を吊り上げる。サフィールがピオニーを見る時は、いつもこんな表情だ。自分が屈託のない笑顔をもって彼に受け入れられたことなど、一度もない。
 それでも、長い年月をかけて自分に向けられるのに慣れてしまったその顔に、ピオニーはいつも通り笑顔を向ける。
「よう、サフィール。探し物か?」
しかし、彼はピオニーの問いには答えずに
「何しに来たんです。邪魔ですから帰ってください」
にべもなく部屋から追い出そうとする。ピオニーはサフィールのつっけんどんな態度など一向に介せず、ドアを閉めて彼に近寄った。
「そう言うなって。執務が終わったから顔を出したんだ。お前も根を詰めてないで息抜きしようぜ」
サフィールはそれ以上近づくなと言いたげにピオニーを睨んだが、肝大な皇帝は彼の横まで来てしまう。微かに後ずさりする幼馴染に構うことなく、ピオニーはガラクタを注視した。
「この山は昔の物が多いな。…おっ、これ子供ん時ケテルブルクで流行ったおもちゃじゃないか!まだ持ってたのか。…こっちの音機関は見覚えがあるぞ、確かお前がうまくできたとか言って俺たちに見せびらかしたんだ。懐かしいなぁ」
ピオニーが思い出の品々に感じ入るように声をあげると、
「…触ってもいいですよ。壊さなければね」
サフィールはどこか緊張をほぐしたように言った。自分と同じく過去を懐かしむピオニーに、わずかでも気を良くしたのか。サフィールらしいな、とピオニーは思った。
「いや、いい。それより何を探してたんだ? 俺が見たことあるもんなら探すのを手伝えるぜ」
サフィールが部屋中ひっくり返して、ケテルブルク時代のものまで引っ張り出すからには探し物は古いものに違いない。幼馴染が何を探しているのか興味が湧き、そこまで必死になるからにはピオニーにとっても多少は価値のある物なのではないかと期待して、彼は訊いた。
 けれども、サフィールはため息を吐き、肩を落として言った。
「あなたには関係ないものですよ。それに、整理整頓が苦手なあなたに頼んだら見つかるものも見つからなくなってしまいます」
「そう連れないこと言うなって。何を探してるかぐらい教えてくれてもいいじゃないか」
棘のある言い方を気にも留めず、なおもピオニーはサフィールに訊いた。サフィールはささやかな秘密を教えてもいいものかと逡巡するように、しばらく黙ったままだった。
 ようやく彼の口から出た答えは、ある程度ピオニーに予想がついていたものだった。
「ジェイドからもらったものですよ」
ほう、と関心の声をあげるピオニーの隣で、サフィールは滔々と語りだす。
「子供のころから研究院にいたころまでの間にジェイドにもらったものを、一つにまとめておいたんです。手紙とか、彼が遺したメモとか、ちょっとしたプレゼントとか。どんな些細なものでもジェイドの手の触れたものであれば欠かさずとっておいたんです。それなのに」
サフィールは一度言葉を切る。その目は切なげな光を宿して、目の前のガラクタの山を見つめていた。
「久しぶりに見返そうとしたら、見つからないんです。部屋中の箱や引き出しを開けて、同じところを何度も何度も探したのに。何よりも大事な物なのに」
大切な物を見失ってしまった自分を責めるように、苦渋の滲む声でサフィールは言った。よく見れば、彼の服には埃やら機械油やらがあちこちについている。乱れた髪や服装は、彼が一心不乱にジェイドとの思い出の品々を探し続けてきたことを物語っていた。ジェイドとサフィールとの歴史が刻まれてきた宝物の価値、そしてそれが失われたとサフィールが知った時の彼のショックを推し測れないほど、ピオニーは狭量な人間ではなかった。
 それでも、ピオニーはサフィールに同情する気にはなれなかった。
 唇を開き、冷徹な声で言い放つ。
「諦めろ。それは多分、見つからん」
サフィールははっとピオニーを見上げる。その視線はピオニーを咎めるように彼を鋭く射抜いた。
「どうしてそんなことが言えるんですか。まだ見落としがあるのかもしれませんし、きっと見つかるはずです」
言い聞かせるような強い語調は、あるいは自分にそうするためか。しかし、ピオニーは首を振った。
「無理だ。きっと誰かが、お前自身かもしれんが、どこかにひょいと置き去りにしたまま忘れてきちまったんだろう。そういうものは二度と見つからない」
「私がジェイドからのものを失くすなんて、そんなはず」
「あるんだよ。そんなに大事なら、ガラクタと一緒になんてせずに見えるところに飾るか、金庫に入れて鍵でも掛けておけばよかったんだ」
きっぱりと言い切ると、サフィールはうつむいて押し黙る。言い返せないのは、ピオニーの言葉を認めた証拠だろう。ピオニーはその顔を覗き込み、きわめて落ち着いた声で問いかけた。
「お前だって、うすうす分かっているんじゃないのか? そいつがもうここには無いことぐらい」
サフィールは答えない。時計の秒針が時を刻む音だけが部屋に響く。
 ようやく彼が漏らしたのは、吐息とも声ともつかないものだった。
「ジェイド…」
心の支えたる人の名を口にすることで、自分の心を守ろうとするように、サフィールは呟いた。ピオニーはそれが鼻につくことも、呆れて言葉を失うこともなかった。いつものサフィール、今まで見てきたままのサフィールだった。彼のジェイドへの依存を責めることも、それを正せと諭すこともしようとは思わない。
「なぁ、サフィール」
その代わり、ピオニーは明瞭な口調で言った。部屋に満ちた埃っぽい空気を払うかのように、サフィールの心に立ち込めた靄をかき消そうとするかのように。
「二度と見つからないかもしれないものを探して時間を無駄にするより、これからジェイドに手紙や物をもらえるように励んだらどうだ? ジェイドはいなくなっちまったわけじゃない。毎日だって会えるし、例え何かもらえなくたって、本人がそこにいるんだからそれでいいじゃないか」
あ、とサフィールの喉から声が漏れる。彼の心に自分の言葉が届いているのを確認して、ピオニーは先を続けた。
「実際、お前が思い出の品をしばらく放っておいたのだって、本物のジェイドがいるからそれを見返す必要が無くなったからだろう? 無くなった物は、お前には必要のないものだったんだよ」
サフィールがピオニーを見る。少し驚いたというふうに、目を見開いて。
「あなたって、すごくときどき、頭良いですね」
ゆっくりと吐き出されたのは、飾り気のない賞賛の言葉だった。珍しくサフィールから好意を受け取ったピオニーは、微かに胸を張る。
「建設的な思考の持ち主で無いと皇帝は務まらんからな。なかなかためになっただろう?」
「そういう傲慢な態度は鼻につきますが、そうですね…少し、落ち着きました」
ささやかな嫌味を口にしながらもその表情は、憑き物が落ちたかのように穏やかだった。
 それでいい、とピオニーは思った。ここにはジェイドがいる。ちょいと離れているが、ネフリーもいる。そして、俺が。過去に取り残された人間は一人もいない。みんな大人になって、自分の足で今いる場所まで歩いてきた。それでいいじゃないか。俺たちには未来がある。関係とは過ぎ去った時間の遺産なのではない。これから築き上げていく、今この瞬間にも生まれ続けている繋がりなのだ。
 ピオニーは笑って、サフィールの背中を叩いた。
「そいつは良かった。俺はそろそろ行く。せいぜい片づけ頑張れよ、サフィール」
激励の衝撃が強すぎたのか、友の肩が前後に揺れる。サフィールは何か言いたげにピオニーを睨んだが、ピオニーは背を向けてドアへと向かった。
 その足を、サフィールの声が呼び止める。
「ピオニー」
なんだ、と振り返れば、赤紫色の瞳が躊躇いがちに揺れていた。ようやく意を決し、薄い唇が紡いだ言葉は。
「ありがとう」
頬を微かに朱に染めて、幼馴染はそう言った。ピオニーは微笑で応えると、しずかに部屋を去った。
 後日、ピオニーがジェイドの部屋で、無くなったはずのサフィールの宝物を見つけたのは、また別の話である。



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あとがき:

 ここまで読んでくださり有難うございました! 実体験に基づいていたり基づいていなかったりするお話でした。スムーズに書けて楽しかったです! 最後ああは書きましたが、多分、続かないです…すみませ…

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